エディゲレロ

1992年に素顔で新日本プロレスに初来日。このときは、正統的な動きの中に切れのある空中技を披露し、天才レスラーと称えられた。また、この頃出会ったクリス・ベノワ、ディーン・マレンコとは生涯にわたって親友と呼び合う仲になり、その後も行動を共にしていく。同じ頃、CMLLでマスカラ・マヒカという覆面レスラーへの変身を命じられる。しかし自身の扱いに不満を持ち、新興のライバル団体AAAに電撃移籍、自らマスクを脱いで正体を明かしたルチャリブレ史上唯一の選手となった。AAAではトップ選手のエル・イホ・デル・サントと「ニュー・アトミック・ペア」を結成(初代アトミック・ペアは互いの実父であるエル・サント&ゴリー・ゲレロ)した。

その後、二代目ブラックタイガーとしての活躍も見事だった。

不器用だったハンセン

日本初参戦は1975年9月。まだ一介の若手であったが、シリーズ最終戦は蔵前国技館でのダブル・メインを控えたセミファイナル・マッチであった(対戦相手は当時全日本のNo.3だったザ・デストロイヤー)。ジャイアント馬場はギャラを手渡す際「いい試合をしてくれた」と声を掛けたが、実際の評価は「馬力だけの不器用なレスラー」だったという。

サンマルチノ戦後の1977年新春より新日本プロレスと契約し、同年秋の2度目(来日は3度目)の参加からはシリーズエースとしてメイン級の働きをするようになった。1979年のMSGシリーズでは、アンドレ・ザ・ジャイアントを抑えてアントニオ猪木と優勝戦を闘い、1980年2月にはウィリー・ウィリアムスが観戦する面前で猪木からNWFヘビー級王座を奪取した。以後も猪木のライバルとして成長し、NWF王座をめぐる名勝負を展開した。「0.X秒差の逆ラリアート」などのドラマを生み、それまでのメイン・イベンターであったタイガー・ジェット・シンを抜いて新日のトップ外国人レスラーとなった。

タイガー服部

明治大学在学時にレスリングで頭角を現し、1966年全日本レスリング選手権大会男子グレコローマン・バンタム級で優勝を果たした。翌年1967年にルーマニアで行われたレスリング世界選手権においてもバンタム級で優勝を果たした。

卒業後は松浪健四郎と渡米し、コーチ業をしながら選手活動を継続。全米選手権を制覇(詳細不明)したのをきっかけにプロレスラーにレスリングを教えるようになり、1970年代後半にフロリダにてヒロ・マツダの道場に入りハルク・ホーガンらを指導。また、同時期にフロリダ地区(エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)で活動していたマサ斎藤(明治大学の同僚)、高千穂明久、ミスター・ヒト、ミスター・サクラダ、キラー・カーンら日本人選手のマネージャーも務めた。この頃、ミッドサウス地区のプロモーターのビル・ワットにタイガー服部と命名される。

フロリダではレフェリーも担当し、1980年には全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦にNWAの公認レフェリーとして参加。アブドーラ・ザ・ブッチャー&キラー・トーア・カマタ対ザ・シーク&グレート・メフィストなどの試合を裁いている。

シンの全日参戦期

1981年7月に全日本プロレスに移籍し、再び上田とのタッグでジャイアント馬場&ジャンボ鶴田組からインタータッグ王座を獲得。1980年代前半はザ・シークやテリー・ファンクら外人選手との対戦で、シンの持ち味が発揮されることがあったが、ほぼ同時期に新日本プロレスから移籍したスタン・ハンセンらの影に隠れ、全日本プロレスでは精彩を欠く存在であった。

輪島大士の国内デビュー戦の相手に抜擢されたり、全日本プロレスにUターンしたアブドーラ・ザ・ブッチャーとの凶悪タッグを結成するものの、人気低下に歯止めがかからず、一時的な話題を提供するだけに留まった。特に1980年代後半は以前と比べると流血試合が大幅に減った上に体重が増加し、シンの持ち味であるスピーディーな暴れっぷりは徐々に衰えていった。