フレッドブラッシー

数々の伝説を遺したブラッシー。

1961年、ロサンゼルスでNAWA世界王者に認定される。1962年に力道山に敗れタイトルが日本に持ち込まれたと報道されたが、実際にはベルトの移動はなく、力道山は新たに設立された初代WWA認定世界ヘビー級チャンピオンとなる。4月にWWAタイトルに挑戦するため、日本プロレスに初来日。

このとき力道山、グレート東郷らとのタッグ戦でブラッシーの噛みつき口撃が炸裂、額から激しく血を滴らせるグレート東郷の姿をテレビで見た老婆がショック死したこともあるが、当のブラッシーは気にかける様子もなく「アメリカでは50 – 60人はショック死させた。」と言い放った。彼のヒールとしての嫌われようは半端ではなく、地元ロサンゼルスでは、幾度となくナイフを持ったファンに襲われ、硫酸をかけられたことすらあるという。投げつけられたゆで卵が眼に命中し、片方の視力はほとんど失われたともいわれる。

真壁刀義

海外遠征から帰国後の2002年、KAIENTAI-DOJOの藤田ミノルと結託しヒールへ転身。しかし今度は棚橋弘至や柴田勝頼等が頭角をあらわした為、トップ戦線で活躍する第三世代と新闘魂三銃士(棚橋、柴田、中邑真輔)の間に埋もれてしまう。

そんな折、高山善廣とのタッグでプロレスリング・ノアの小橋建太、本田多聞が保持するGHCタッグ王座に挑戦。敗北を喫するも、奮闘を見せつけ自身の評価を上げる。その後は腰痛に苦しみ、なかなか結果を残せず。2004年8月、G1 CLIMAXに初出場を果たしたのを機に、リングネームを真壁刀義に変更。10月に成瀬昌由と共に下剋上宣言を行い、トップ層との争いを目論むも、頓挫。その後、成瀬がケガで欠場する間に蝶野正洋率いるブラック・ニュージャパンに加入。

2005年、G1公式リーグ戦2日目に対戦した中邑戦でアキレス腱断裂の重傷を負い長期欠場となった。

でんころ

田園コロシアムについて。

この地は大正末期に慶應義塾大学野球部の専用球場として使用されていたが、1936年に田園テニスクラブのメインスタジアムとして改めてオープンした。テニスだけでなくコンサートをはじめとして、プロレスやボクシングなどのビッグマッチの会場としても利用された。

東急電鉄を利用して雪が運び込まれ、スキージャンプの興行が開催されたこともある。しかし施設の老朽化や同地の住宅街再開発計画、また江東区有明テニスの森公園にテニス場有明コロシアムがオープンした影響などもあり、1989年末に閉鎖された。

プロレスファンにとっては、アンドレVSハンセンなど非常に想い入れの深い会場だった。

日本におけるサンボの歴史

1963年9月、当時日本レスリング協会の会長であった八田一朗は「ソ連のレスリングの強さの秘密はサンボにある」と、レスリングのトレーニングにサンボの導入を試み、ソ連レスリング選手団と共に4名のサンビストを招請した。当時、日本国民はサンボに関する知識をまったく持っていなかったが、4名のサンビストは前橋市・神戸市・横浜市・東京都など各地で柔道選手と柔道の交流試合をおこなった。

1965年1月、日本サンボ連盟は国内最初の大会「東日本サンボ選手権大会」を東京・代々木体育館で開催し、数多くのレスリング選手と柔道選手が参加した大会であった。またこの大会は猪狩則男(当時日本レスリング協会理事長)の尽力によってテレビ放映され、「サンボ」の名は広まりを見せる。さらに同年8月、「第1回全日本サンボ選手権大会」が岩手県盛岡市で開催された。

ノルキアの総合戦績

2001年8月、K-1 JAPAN GP 2001で行われた「K-1 VS 猪木軍」でゲーリー・グッドリッジと総合格闘技ルールで対戦し敗戦。

2001年12月、PRIDE.18で山本憲尚(現・宜久)と戦うも敗れ連敗。

2002年12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2002で安田忠夫と戦い総合初勝利。

2003年5月、新日本プロレスの総合ルール「ULTIMATE CLASH」で行われた中邑真輔戦で敗戦。

2003年12月31日、K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!では成瀬昌由と対戦し、チョークスリーパーで一本負け。

2008年2月23日、Strikeforceでボブ・サップと対戦し、1RTKO勝ち。

2008年8月16日、GLADIATORでトム・エリクソンと再戦し、1RKO勝ち。

2009年5月26日、DREAM初参戦となったDREAM.9のスーパーハルクトーナメント1回戦でソクジュと対戦し、パウンドでTKO負け。

2013年6月29日、ロシアにて極真空手とK-1の共同主催で行われたK-1 World Ichigeki Cup 2013にてレチ・クルバノフと一撃キックルールで対戦。延長1Rまでもつれるも判定負け。

キワーコワルスキー

日本へは日本プロレスに3回来日し、1963年の第5回ワールドリーグ戦では決勝で力道山と対戦したほか、開幕戦でジャイアント馬場の凱旋帰国第一戦の相手を務め、時間切れ引き分けの熱闘を演じた。第10回大会では馬場と決勝で対戦したほかアントニオ猪木とも対戦している。

1971年には第2回NWAタッグ・リーグ戦に参戦し、パイルドライバーで2人の選手を死亡させたとされていたキラー・バディ・オースチンとの「キラー・コンビ」で好成績を収めている。全日本プロレスにも2回参戦しており、1975年の第3回チャンピオン・カーニバルにも出場。同じくチャンピオン・カーニバルに出場したジン・キニスキー、ブルーノ・サンマルチノと組んでインターナショナル・タッグ王座にも2度挑戦している(王者チームは馬場&ジャンボ鶴田)。

ゆでとロビンソン

キン肉マンの作者、ゆでたまごの嶋田先生が、ビルロビンソンの死去に対して相当ショックを受けていた、というのが印象深い。

ロビンマスクとビルロビンソンの2ショットのイラストをTwに投稿したそうだ。

「信じたくはなかったけどあなたの訃報は本当だったんですね」とつづり、「さらば『人間風車』ビル・ロビンソンあなたこそ唯一無二のプロレスラーでした。お冥福を心からお祈りいたします」と故人をしのんだという。

これはこれで、嶋田先生のプロレス愛を心から感じる出来事である。

山本宜久

1995年4月20日、「バーリ・トゥード・ジャパン・オープン 1995」ではヒクソン・グレイシーと対戦。ヒクソンに対し、フロントチョークをかけるなどしたが、3R3分49秒スリーパーホールドで一本負け。ヒクソンのパンチを受け、眼窩を骨折した。まだルール問題が明確でなかった総合格闘技の創成期に行われたこの試合で山本はヒクソンにテイクダウンされないようにとの前田日明のアドバイスの元、常にロープを掴みつつ、フロントチョークをかけていた。その状態に、ヒクソンもかなり追い詰められていて、必死に抵抗していた。試合後、グレーシー側の抗議もあり、ロープを掴む行為が試合の進行を妨げるなどの問題と取られ、それ以降の大会ではロープを掴む行為が反則と見なされるようになった。

ムタ

ムタの誕生はプエルトリコのWWCでの海外武者修行時代に遡る。修行先ではスーパー・ブラック・ニンジャのリングネームを名乗って活動していた。これがNWAのプロモーターの目にとまり、ゲーリー・ハートのアドバイスにより、顔にペイントを施したザ・グレート・カブキの息子、ザ・グレート・ムタが誕生した。そして1989年にWCWに登場(初登場時は忍者キャラで、入場コスチュームには「伊賀流」の刺繍が入っていた)、ムーンサルトプレスを必殺技に、スティングやリック・フレアーとの抗争を経てヒールの人気レスラーとなった。日本初登場は1990年9月7日、大阪府立体育会館でのサムライ・シロー戦である。これ以後、年に何度か登場し、対戦相手を流血と毒霧地獄に追い込む凄惨な試合を展開している。

シーク

日本には1972年9月、末期の日本プロレスに初来日。坂口征二とUNヘビー級王座を賭けての2連戦を行い、初戦で王座を奪取している(第2戦で奪回される)。翌1973年3月、全日本プロレスに初参戦。ジャイアント馬場が持つPWF世界ヘビー級王座の初防衛戦の相手を務めた。1974年11月には新日本プロレスにも参戦し、沖縄でアントニオ猪木とのランバージャック・デスマッチも行われたが、シリーズ途中に緊急帰国してしまった(キラー・ブルックスらがビッグ・タイム・レスリングから選手を引き抜き、デトロイトで新団体を興したことによる)。シークが新日本プロレスに参戦したのはこの1シリーズのみである。