ビンス・マクマホン・シニア

日本との関係では、1960年代前半にアメリカ武者修行中のジャイアント馬場をトップレスラーに起用したほか、1970年代中盤以降はアントニオ猪木の新日本プロレスと提携しアンドレ・ザ・ジャイアント、ボブ・バックランド、ハルク・ホーガンなどの大物レスラーを新日本に送り込み、自らもたびたび来日した。

当時の新日本とWWFの関係は、新日本がシングル・タッグのリーグ戦(全日本のチャンピオン・カーニバルと世界最強タッグに相当)に「MSGシリーズ」「MSGタッグリーグ戦」と命名し、実権はともかく猪木の側近の新間寿がWWF会長の肩書きをもつ程であった。また、藤波辰巳を王者として久々にWWWF世界ジュニアヘビー級王座が復活し、藤波や初代タイガーマスクはWWFジュニア王者として新日本ジュニアヘビー級の黄金時代を築いた。1980年前後の新日本の豪華外人路線にとって、シニアとのパイプは欠かせないものであった。

WWE殿堂

WWE殿堂が設立されたきっかけは、1993年に死去したアンドレ・ザ・ジャイアントである。彼の生前の功績を称える目的で、WWF(後のWWE)はWWF殿堂を創設した。WWF殿堂は1996年まで毎年一回実施された。この当時は特にPPVに連動したイベントとはなっておらず、選定した結果を発表し、独立した式典として表彰式を行っていた。しかしながらその式典の規模は大きなものではなかった。

2004年に入り、1996年以降行われていなかった殿堂入りが復活する。団体の名称がWWEに変更していたので、殿堂の名称もWWE殿堂となった。また、殿堂入りの表彰はレッスルマニア前日に行われるイベントとして、一連のレッスルマニアの行事に組み込まれることとなり、表彰も盛大に行われることとなった。レッスルマニアの最中にも殿堂入りの人物が紹介される時間が設けられている。

ルーテーズのバックドロップ

テーズはこの技の元祖であり、威力を世界中に広めたレスラーであり、テーズはグレコローマンバックドロップと言う。後にアントニオ猪木やジャンボ鶴田が使用し広く他のレスラーに浸透するヘソ投げ式と、ブリッジをかけない落とし方の2種類を使い分けた。ヘッドロックの返し技としてもよく使用していた。高角度であり、テーズが活躍していた時代は使用するマットが硬かったため、それも手伝って高い威力を持つ必殺技であった。現在は必殺技としての説得力は高いとはいえないが、多くのレスラーが様々な投げ方で使用するポピュラーな技として定着している。かつては岩石落とし、脳天逆落としなどと訳されることもあった。

なお、テーズが日本におけるバックドロップの後継者として指名したのは3人で、猪木、鶴田と、ラッシャー木村である。これは1981年前後、国際プロレスの外国人選手招聘に力を貸して訪日していた際の発言である。

連続防衛記録

2002年4月5日安田忠夫を破りIWGPヘビー級王座を奪取。以降、2003年5月2日に高山善廣に敗退するまで、橋本真也の持っていた防衛回数9を更新する10度の防衛を果たした。

2003年9月12日、ノアの日本武道館大会において、小橋建太の保持するGHCヘビー級王座に二度目の挑戦を果たしたが、王座奪取に失敗した。

11月30日、ノア・北海道立総合体育センター(きたえーる)で棚橋と組んで、本田多聞&小橋建太を倒し、GHCタッグ王座奪取。12月31日、「INOKI BOM-BA-YE 2003」でエメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦し、1分2秒左フックでTKO負け。

2004年6月12日、全日本・愛知県体育館で、ケンドー・カシンと組んで、小島聡&カズ・ハヤシを倒し、世界タッグ王座を獲得。3大メジャーのタッグを制覇したのはベイダー、高山善廣に続き3人目。

ダスティーローデス

ウエスト・テキサス州立大学ではアメリカンフットボールの選手として活躍していた(同期にブルーザー・ブロディ、ボビー・ダンカン。ザ・ファンクスは大学の先輩、スタン・ハンセンとテッド・デビアスは大学の後輩)。

ジョー・ブランチャードのコーチを受け、1968年にテキサス州サンアントニオでプロレスラーとしてデビュー。その後、セントラル・ステーツ地区で同じテキサス出身のディック・マードックとタッグチーム「テキサス・アウトローズ」を結成し、NWAとAWAの両テリトリーを股に掛けて活躍。日本には1971年11月に国際プロレスに初来日。以降、全日本プロレスと新日本プロレスに参戦した

アントンハイセル

ブラジル国内で豊富に収穫できるサトウキビの絞りかすを有効活用法として考案された事業で、当時からブラジル政府は、石油の代わりにサトウキビから精製したアルコールをバイオ燃料として使用する計画を進めており、バイオテクノロジーベンチャービジネスの先駆けであった。このアントン・ハイセルを開始するにあたって、猪木は自民党の大物議員に「アントン・ハイセルによって世界中のエネルギー問題や食糧問題が全て解決する」と言って協力を呼びかけたが断られ逆にブラジル情勢を危惧し辞めるよう説得されるが、猪木はこの事業に傾倒して行く。

この一大プロジェクトとも言える計画に、解決しなければならない大きな問題が発生する。サトウキビからアルコールを絞り出した後にできるアルコール廃液と絞りかす(バガス)の弊害、公害問題である。そこで家畜に飼料として食べさせるが、直ぐに下痢を起こしてしまう。また、土中にバガスをそのまま廃棄すると、土質を悪化させるため、その土地では農作物が取れなくなるなどの弊害が生じる結果になってしまう。

天龍の快進撃

1986年10月2日、阿修羅・原とシングル戦で引き分けたことを契機に、長州離脱後には全日マットの活性化を目指し龍原砲を結成。「最終目標は新日マット参戦」と掲げた。その後天龍同盟を結成(構成員は原、サムソン冬木、川田利明、小川良成)。REVOLUTIONを旗印とした「地方でも決して手を抜かない」をテーマにした闘いは、やがてファンの大きな支持を得るようになった。特に鶴田とのシングル対決は鶴龍対決と呼ばれ全日本プロレスのドル箱カードとなり、1987年、1989年のプロレス大賞ベストバウト賞を獲得するなど、長州離脱後に人気が低落した全日本プロレスを盛り立てた。1989年6月には鶴田とのタイトルマッチを制し三冠ヘビー級王座を獲得、第2代王者となった。11月にはスタン・ハンセンと組んでのタッグ対決ながら馬場からパワーボムからのエビ固めで日本人では初めてピンフォールを奪った。試合後に当時人気絶頂であったUWFの東京ドーム大会が同日に開催されていたことを意識し「今日の勝利はドームより重い」と発言し語り草となる。

IWGPタッグ王座

1981年に北米タッグ王座が封印されて以来、新日本は長らくタッグ王座不在の時期が続いていたが、1985年5月に「WWFインターナショナル・タッグ王座」が新設され、藤波辰巳&木村健吾組が初代王者組となり、4度の防衛を果たしていた。しかし、10月末にWWFが新日本との業務提携を解消し、同王座は誕生からわずか5か月でWWFインターナショナル・ヘビー級王座・WWFジュニアヘビー級王座と共に封印されてしまった。それに代わるタッグ王座として、新日本プロレスがIWGPの王座として初めて認定したタイトルがこの「IWGPタッグ王座」である。

SWSの試み

相撲にちなんだ部屋別制度を採用。大相撲出身の天龍ならではのアイデアと言える。この部屋同士の対抗戦をカード編成の主体とした。部屋として、天龍源一郎率いる”レボリューション”、若松市政率いる”道場「檄」”、ジョージ高野率いる”パライストラ”の3つが置かれた。

しかし、その部屋別制度が派閥争いを招き、事実上の単独エースである天龍率いるレボリューションと、それ以外の部屋とで主導権争いが生じた。他にも、北尾光司の八百長発言などトラブルが続き、さらには興行の不振など、さまざまな問題から短期間で崩壊を迎えてしまう。

崩壊後は、引き続きメガネスーパーが一定期間スポンサーとなることを条件に、天龍を中心とした”レボリューション”所属選手主体のWARと、反天龍派の”道場「檄」”・”パライストラ”所属選手主体のNOWの2つに分立した。

ロードウォリアーズのマネージャー

ポールエラリングは、元々自身がレスラーだった。

1981年に国際プロレスに待望の初来日を果たす。5月4日、当時病気療養中だったアニマル浜口の王座返上で空位となっていたIWA世界タッグ王者決定戦において、テリー・ラザンとのコンビでラッシャー木村&マイティ井上に勝利、第24代のチャンピオン・チームとなる。その後5月13日に井上&阿修羅・原を相手にタイトルを防衛、5月16日の後楽園ホール大会での金網デスマッチで最終的には井上&原に王座を奪われるも、期待に違わぬ活躍を見せた。

その後引退し、ロードウォリアーズのマネージャーとして大活躍した。